植村隆氏は本当に捏造記者だったのか?

植村隆氏は朝日新聞の元記者で、1991年に従軍慰安婦の記事を書いているのですが
この記事は実際には元慰安婦がそういう証言をしていないにも関わらず
軍人に強制連行されたという誤った印象を与える内容になっていたことから
慰安婦強制連行デマを広げる原因になったと指摘され
ネット時代に入りこのことと彼の名前が幅広く知られるようになると
捏造記者として嫌がらせや脅迫を受けるようになりました。
現在植村氏は櫻井よし子氏や西岡力氏など自身を「捏造記者」と呼んだ相手に対して
名誉毀損訴訟を起こしていますが、ここでは植村氏の記事の問題点と
実際に彼の記事が捏造記事だったのかについて検証を行いたいと思います。





元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く

日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に
売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることが
わかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が
聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に
公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験を
ひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。

尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。
(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。
二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。
五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を
付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が
一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、
逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。
また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になって
ソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。

— 植村隆、朝日新聞大阪版27面 1991年8月11日

こちらが植村氏の実際の記事になります。この記事のうち
「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され という部分が問題になっているわけです。


女子挺身隊とは?

そもそも女子挺身隊というのは戦時中に女子挺身勤労令に基づき国の徴用で集められた
未婚女性で構成された勤労奉仕団体のことで、女子勤労挺身隊とも呼ばれ、
主に工場などでの勤労労働に従事しました。
日本国内で約16万人が動員されたと言われていますが、日本の統治下にあった朝鮮半島の
女性に対しては適用されていませんでした
当然ながらこの女子挺身隊と従軍慰安婦は何の関係もありません。

慰安婦強制連行を言い出したのは誰なのか?

ところが当時の朝鮮半島では「女子挺身隊にするという名目で国の命令で連れて行かれた
女性が無理やり慰安婦にされている」という流言が幅広く流布されていました。

朝鮮半島では国の命令で強制的に女子挺身隊が集められることはありませんでしたが
強制性のない募集による女子挺身隊は存在したため、募集に応じるようにという
周囲の説得から逃れるための口実として「挺身隊になると慰安婦にされる」という作り話を
使われたことが、デマが生まれた原因であるとも言われています。

1944年6月27日付の内務省の閣議用説明文書の中にも、徴用された未婚女子が慰安婦に
されているといった荒唐無稽な流言が巷にあるせいで、一般の労務募集も忌避されるように
なったという報告が載せらるなど、この流言は朝鮮半島では非常に有名なものだったようです。

この話は戦後になってからも登場し、千田夏光の著書「従軍慰安婦」(1973年)の中に
挺身隊という名のもとに彼女らは集められた。総計二十万人が集められたうち慰安婦に
されたのは五万人ないし七万人とされている」という記述が見られるほか
松井やよりも1974年に「軍事力で韓国女性を女子挺身隊員として狩り出し
日本軍の従軍慰安婦として中国や東南アジアの戦場に送り込んだ。」と寄稿しています。

読売新聞も1987年8月14日付け夕刊の芸能欄で「夢屋」という劇団が従軍慰安婦を題材にした
公演を行うことを紹介した記事を書いていますが、その記事の中で「昭和十七年以降
「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが
多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋や
塹壕の中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は世界の戦史上極めて異例と
されながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった。」と解説を加えています。

他にも悪名高い吉田清治の慰安婦狩り証言などがありましたが、これらは全て前述の
「女子挺身隊にするという名目で連れて行かれた女性が慰安婦にされている」
という戦時中の朝鮮半島に流れていた流言を元にして書かれたものであることが
お分かりいただけると思います。

なぜこういったことがまかり通っていたのかと言いますと、植村氏の記事の前までは
証言を行う慰安婦もおらず、慰安婦の研究自体があまり進んでいなかったので
彼女たちの実態について知られていない部分が多かったために
韓国人慰安婦は女子挺身隊として連行されて無理やり慰安婦にされていたという流言にも
一定の影響力が残っていたことが原因で、朝日新聞が主張している慰安婦と挺身隊の
混同があったというのはこのことを指しています。

当然ですが流言は流言でしかないので、実際に女子挺身隊として連行されて慰安婦にされた
被害者などというものは存在しないため、せいぜい伝承や噂話程度の扱いだったことは
「その制度と実態が明らかにされることはなかった。」という読売新聞の一文からも
お分かりいただけるでしょうし、日韓両国でもこれらの話が事実として扱われるようなことは
ほぼありませんでした。


植村隆氏の記事の影響

ところが、この状況は1991年8月11日に朝日新聞に載せられた植村隆氏の記事によって
根本から覆されることになります。
植村氏は韓国で設立されて間もない慰安婦の支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会から
金学順さんという元慰安婦の女性の証言を吹き込んだテープを入手し、それを元に
冒頭で紹介した記事を書きました。

植村氏の記事が歴史的に大きな意味を持っていたのは、噂や伝承の紹介といったものではなく
元慰安婦本人による証言を日韓両国を通じてはじめて公表したものであるという点で
当然世間からも大いに注目を集めるものでした。

記事の時点で終戦から半世紀近く経過していましたが、元慰安婦だったということの世間体や
日帝の協力者であったと非難されることへの警戒感から、自身の経歴について
語ろうとする人間がいなかったのは当然の話で、そのために彼女たちが慰安婦になった経緯など
慰安婦の実態について知られていない部分が多かったというのが当時の状況です。

そんな中で彼女が当数百万部の部数を誇っていた朝日新聞で「女子挺身隊の名で戦場に
連行された被害者」として実名で紹介されたのですから、この記事が世間に与えたインパクトが
どれだけ大きなものであったのかは容易に想像ができると思います。

そしてこの記事がきっかけになって「女子挺身隊にするという名目で連れて行かれた女性が
慰安婦にされている」という話は噂や伝承ではなく、被害者の存在する事実であるという話に
変わってしまい、その後何十年にも渡って日本人を苦しめ続けた慰安婦強制連行デマ
世界中に拡散されて行く起点になったわけです。

とりわけ植村氏の記事の恩恵を受けたのは、当時リアルタイムで慰安婦強制連行の証言を
続けていた故・吉田清治で、植村氏の記事以降、彼の立場は売名のためのホラ吹きから
勇気ある告白者に変わってしまい、彼の創作だと思われていた慰安婦狩り証言は
作り話ではなく実話であったとして、日韓両国の世論を大いに刺激する結果になりました。

金学順さんは本当に女子挺身隊の名で連行されたのか?

もちろん植村氏の書いた記事が事実で、金学順さんが実際にそういう証言をしていたのであれば
何の問題もなかったのですが、植村氏の記事の3日後に金学順さんが行った記者会見では
「父親が自分が生後100日のときに亡くなった後、生活が苦しくなった母親のために14歳の時、
平壌妓生(キーセン)検番(置屋)に売られた。3年間の検番生活を終え初就職と思って
検番の養父について行ったところが北中国鉄壁の日本軍300余名がいる小部隊前だった。
養父は日本軍からお金を受け取れなかったようだ。」
と述べていたことが1991年8月15日付けのハンギョレ新聞に記載されています。

また、金学順さんはその後植村隆氏の義母である梁順任が会長を務めていた
太平洋戦争犠牲者遺族会が1991年12月6日に東京地裁に提訴した
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件という裁判に原告として加わっているのですが
その訴状の中には金学順さんの訴えとして次のような記述がされています。

一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、
母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、
家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の
養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、
「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と
共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか
乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、
到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。
「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。

他にも韓国挺身隊問題対策協議会の聞き取り調査に対しても金学順さんは
「母は私を妓生を養成する家の養女に出しました。母は養父から40円をもらい、何年かの契約で
私をその家に置いていったと記憶しています。国内では私たちを連れて営業できなかったので、
養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。」と述べていることが
当時出版された「証言・従軍慰安婦」という書籍などに載せられています。

慰安所に到着して以降の内容には若干の食い違いがあるものの、いずれの資料を見ても
金学順さんが女子挺身隊の名で戦場に連行されたと判断できる記述は無く
養父に説得されて、養父に慰安所に連れて行かれたという経緯がはっきりと分かるものに
なっています。

植村氏の記事はこれらとは別の金学順さんの証言テープを元に書かれたもので
テープ自体は既に植村氏の手元にはないと話しておりますが、これらの証言は全てテープ証言と
同時期に行われたものですので、テープでも同様の証言をしていたものだと思われます。


植村隆氏の反論

このように植村氏の記事は慰安婦強制連行デマを広げる大きなきっかけになったにも関わらず
その原因になった「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という内容が
実際には金学順さんが語っていないものであったことから、植村氏の記事が捏造記事であると
非難される結果になってしまったわけです。

これに対する植村氏の反論の内容について検証を行いたいと思います。

その前にまず朝日新聞社は2014年12月23日の検証記事で、植村隆氏はテープ聴取の時点で
金学順さんがだまされた事例であることを明確に理解していたとしています。

また植村氏は産経新聞のインタビューに対して、「だから挺身隊というふうに、ご本人が言ったり
それから周りが言ったりしている。つまり、その場合の挺身隊というのは、勤労挺身隊の
意味ではないんですよ。慰安婦のことを韓国ではそういうふうに言われている。」
と、韓国では慰安婦を挺身隊と呼んでいることも、金学順さんが国の命令で女子挺身隊として
連れて行かれたわけでもないこともはっきり認識していたと答えています。

ではなぜ植村隆氏は「養父に説得されて戦場に連れて行かれた」という話を
「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という内容に作り変えたのでしょうか?

まず、植村氏は他紙でも自分と同じように女子挺身隊という言葉を使っていたとして
自分の記事が捏造であれば女子挺身隊という言葉を使っていた他紙も捏造をしたことになると
いった主張をしていますが、前述のように読売新聞などに載せられていたのは
「戦時中の朝鮮では女子挺身隊の名で娘たちが徴発されて戦場に送り込まれていたという
話があるが、その制度と実態は明らかにされていない」と実際に存在した流言について
触れているだけですし、北海道新聞に載っていた金学順さんが「自分は女子挺身隊だった」と
名乗ったという話も、韓国では慰安婦のことを挺身隊と呼んでいるのは事実ですし
本人が名乗ったことをそのまま記事にしただけでしょう。

ところが植村氏の記事にある「金学順さんが女子挺身隊の名で戦場に連行された」という話は
金学順さん本人も誰も述べていないことであり、植村氏の記事が問題視されているのは
女子挺身隊という言葉を使用したことそのものではなく、取材で得た情報を正しく書かなかった
という点ですので、これは論点のすり替え以外の何者でもありません。

植村氏の立場からすれば「女子挺身隊の名で戦場に連行された」ということが
金学順さんが語っていない経歴であることを認めてしまいますと、自身の記事が捏造であることを
認めることになるのでそれはできませんし、かといって最初の段階で韓国では慰安婦を
挺身隊と呼んでいることも、金学順さんが国の命令で連行されたわけでもないことも
把握していたと答えてしまったのですから、翻訳ミスや状況を誤認したという言い訳も
できなくなってしまっています。
そのために「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という文章を書いた理由については
「養父に説得されて戦場に連れて行かれた」という証言をそのまま記事にしたつもりだったが
読者に正確に伝わらなかったという苦しい言い訳をする以外に方法が無くなっているわけです。

それでは次に植村氏の言い訳の矛盾点を見ていきましょう。

まず植村氏は韓国では慰安婦のことを挺身隊と呼ぶのが普通だったので、自分もそれに倣って
慰安婦のつもりで女子挺身隊という言葉を使ったと述べていますが、これはおかしな話です。
たとえば慰安婦のことを英語ではComfort womenと言いますが、アメリカで元慰安婦が
Comfort womenという言葉を使って行った証言を日本の新聞で記事にする場合に
慰安婦ではなくComfort womenという言葉を使い「Comfort womenの名で連行された」
などという文章で状況説明をする記者が存在するでしょうか。

百歩譲って植村氏の言い分を認めるにしても、記事の中で女子挺身隊という言葉が出てくるのは
「連行された」という部分だけで、タイトルも含めてほかの部分ではしっかりと日本語で
慰安婦という言葉を使っている以上は、慰安婦ではなく勤労挺身隊の意味で女子挺身隊
という言葉を使用したと解するほうが自然ですし、大半の読者もそのように
受け取ったものだと思われます。

植村氏は「連行された」という言葉を使用したことについても「強制連行とは言っていない」
と反論をしていますが、強制という言葉を使わなくても連行には強制のニュアンスが含まれますし
強制性のない連行などというものは存在しません。強制の意味合いを含めずに連行という
言葉を使って例文を書けといわれても、できる人はいないはずです。

また連行という言葉は顔見知りや親しい間柄の人間に対しては通常は使用しない言葉ですし
連行という言葉を使った時点で、警察や軍人などの権力側の人間に連れて行かれたか
民間であってもヤクザなどに暴力的に連れて行かれた場合などに状況が限定されます。
「養父に説得されて連れて行かれた」という話に連行という言葉を当てはめるのは
誰が見たところで日本語として不自然です。

さらに「本文ではだまされて慰安婦にされたと書いているとも言っていますが
誰にだまされたのかが書いていないため、前文の「女子挺身隊の名で戦場に連行された」
という部分とあわせれば、女子挺身隊にすると騙されて軍人に連行されたようにしか
受け取れませんし、故意でもなければここまで重要な情報を欠落させるのはあり得ない話です。

このように植村氏の反論は日常的な言葉の使い方としても記者としての文章の書き方としても
矛盾だらけとしか言いようがなく、「養父に説得されて連れて行かれた」とそのまま書けば
すむ話を、ここまで不可解な理由をつけて「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という文章に
書き換える必要性があったなどとは到底思えません。

だからこそ「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という一文は
金学順さんを戦時下の朝鮮半島で流れていた流言や千田夏光の著書などにあった
「女子挺身隊にするという名目で連れて行かれた女性が慰安婦にされている」という話や
吉田清治の慰安婦狩り証言の被害者に仕立て上げる目的で虚偽の経歴を
付け加えたものであるとして非難を受けているわけですし、実際に多くの読者に
金学順さんは強制連行の被害者であるという誤解を与え、慰安婦強制連行デマを広げる
大きな要因になったわけです。

金学順さんを「女子挺身隊の名で戦場に連行された」被害者にすることが植村氏にとって利益になるのか?

もちろん何の理由もなしにこのような不可解な証言の改変を行う必要はありませんので
次に金学順さんを女子挺身隊の名で戦場に連行された被害者にすることが
植村氏にとって利益になる部分があったのかについて考えてみたいと思います。

これは有名な話だと思いますが植村氏の妻は韓国人で、その母親は梁順任と言い
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件という日本政府を相手取って起こした裁判を
主導した太平洋戦争犠牲者遺族会の当時の会長です。
そのために植村氏が義母の裁判を有利に進めるために金学順さんを強制連行の被害者に
仕立てて世論を盛り上げようとしたのではないかと言われています。

金学順さんの問題には太平洋戦争犠牲者遺族会と韓国挺身隊問題対策協議会という
2つの団体が絡んでいます。このうち植村氏の義母が会長を務めていたのは遺族会で
8月11日の記事の元になった金学順さんの証言テープを植村氏に提供したのは挺対協です。

遺族会が裁判を起こしたのはその4ヵ月後の12月6日のため、8月11日の記事の段階では
梁順任および遺族会と金学順さんとの間に接点があったとは考えにくいですし
こちらの記事に関しては義母に対する忖度のようなものが行われた可能性は
低いと言っていいでしょう。

しかし植村氏は遺族会が提訴した後の12月25日の朝刊に今度は金額順さんに
直接取材をしたとして以下のような記事を書いています。
取材自体は提訴前の11月25日に行われたもののようです。


1991年12月25日朝刊

韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の元朝鮮人従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族35人が
今月6日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起した。慰安婦だった原告は
3人。うち2人は匿名だが、金学順(キム・ハクスン)さん(67)=ソウル在住=だけは実名を出し、
来日した。元慰安婦が裁判を起したのは初めてのことだ。裁判の準備のため、弁護団と
「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(ハッキリ会)は4度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの
元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨の半生を語る
その証言テープを再現する。(社会部・植村隆)

○17歳の春
「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける
民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は
平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたり
して暮らしていました」

「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました
仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の
春(1939年)でした」

「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて
行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は
将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。
鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」

「翌朝、馬の声に気づきました。隣には3人の朝鮮人の女性がいました。その人たちから
『おまえたちは、本当にばかなことをした。こんなところに来て』と言われました。逃げなければ
ならないと思ったのですが、周りは軍人でいっぱいでした。友人と別にされ、将校に
『言う通りにしろ』と言われました」

「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしか
ありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると
将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれた所は、
『北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」

(中略)

○募る怒り
「いくらお金をもらっても、捨てられてしまったこのからだ、取り返しがつきません。
日本政府は歴史的な事実を認めて、謝罪すべきです。若い人がこの問題をわかるように
して欲しい。たくさんの犠牲者がでています。碑を建ててもらいたい。二度とこんなことは
繰り返して欲しくない」

「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか」

これまで韓国に戻った慰安婦たちは、沈黙を続けていた。ところが、昨年6月、日本政府は
強制連行に関する国会で「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」など軍や政府の関与を
否定する答弁をしその後も「資料がない」などと繰り返してきた。こうしたニュースを聞いた
金学順さんは、「自分が生き証人だ」と今年夏に、はじめて名乗りでた。原告3人の外にも
最近、体験を公表する女性が出てきた。



この記事が掲載された段階ではすでに訴状が提出されており
前述のとおり「養父に説得されて戦場に連れて行かれた」という金学順さんの証言が
はっきり分かる状態になっていたにも関わらず、記事では「そこへ行けば金もうけができる」と
金学順さんを説得したのが置屋の主人であった「養父」から「地区の仕事をしている人」
書き変えられているだけでなく、訴状によれば養父と別れたのは「鉄壁鎭」に着いてからだと
なっていますので、軍用列車には養父と一緒に乗っていたはずなのですが
こちらでも養父の存在が消滅して「軍人達と一緒の列車に乗せられた」となるなど
金学順さんが役人・軍人の手によって連れて行かれたという印象を与えるように
細部の内容が微妙に改変されています。

また記事の最後で、「昨年6月、日本政府は強制連行に関する国会で「従軍慰安婦は
民間業者が連れ歩いた」など軍や政府の関与を否定する答弁をしたと記載されていますが
その答弁が行われたのは1990年6月6日の予算委員会で、もともと朝鮮人労働者の
強制連行の調査に関する答弁が行われていて、その中で従軍慰安婦も強制連行の被害者で
あったのか調査するべきという質問があり、労働省の清水傳雄職業安定局長は
「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者が
そうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして」と
答えており、さらにその後強制連行の定義について問われて
「強制連行、事実上の言葉の問題としてどういう意味内容であるかということは別問題と
いたしまして、私どもとして考えておりますのは、国家権力によって動員をされる
そういうふうな状況のものを指すと思っています。」
と答えていることから、この答弁の論点は従軍慰安婦が強制連行被害者であったかどうかで
あり、清水局長が否定したのは国の命令による慰安婦の強制連行であることが分かります。

当然ですが、今日に至るまで国の命令による強制連行の証拠などは出てきていないので
「資料がない」のは当然の話です。

一方の金学順さんにつきましても、「養父に説得されて戦場に連れて行かれた」と
証言している以上は国の命令で強制連行された生き証人になり得ないのは当たり前ですし
彼女の証言内容から見れば、「自分が生き証人だ」と名乗り出たのは
慰安婦強制連行の証人ではなく、慰安所の運営に軍人が関与していたことの証人だと
言いたかったのだと思われます。

しかしながら植村氏の記事では、養父に連れて行かれたという金学順さんの証言を隠したうえで
「強制連行に関する国会」と金学順さんの「自分が生き証人だ」という言葉を結びつけて

日本政府は強制連行に関する国会で「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」など
軍や政府の関与を否定する答弁をしその後も「資料がない」などと繰り返してきた。
こうしたニュースを聞いた金学順さんは、「自分が生き証人だ」と今年夏に、
はじめて名乗りでた。

という文章にしてしまったために、日本政府が慰安婦の強制連行を否定したことに対して
金学順さんが「自分が強制連行の生き証人だ」と名乗り出たようにしか見えなくなっています。

このように元になる証言内容を微妙に加工することで、読者に全く別の印象を与えて
ミスリードさせるという手法は現在でも問題視されていることなのですが
植村氏による金学順さんの記事ではそれがあまりにも露骨に繰り返されており
ここまでくると、なんとしても金学順さんを国の命令で動員されて慰安婦にされた
強制連行被害者に仕立て上げたいという悪意のようなものすら感じられてきます。

ではここで改めて、金学順さんを強制連行被害者にすることが植村氏にとって
利益になるのかを考えてみたいと思います。

先にも述べましたとおり、植村氏の義母は遺族会の会長であったことから遺族会が起こした
訴訟を有利に進めるためだという指摘がありますが、8月11日付の記事とは違い、12月25日付の
記事に関しては遺族会の提訴後に書かれたものであり、その記事の元になった11月25日の
取材は金学順さんが裁判前の聴取に応じるという形で行われたものですので
この時点では既に義母が関わる裁判が行われることは植村氏も把握していたはずです。

彼女の証言に強制連行被害者であるという経歴を加えた上で、政府の嘘を糾弾するという
ポジションを与えることは世論を盛り上げる上で十分な役割を果たすことができますし
12月25日付の記事は植村氏による持ち込みだという朝日新聞の元記者の証言とあわせても
こちらの記事は義母に対する利益供与の意図があった可能性は否定できないと思われます。

当然ですが、新聞というメディアは社会的影響力が非常に大きいため、その中で身内に対する
ひいきや利益供与が行われることがあれば大問題となりますので、身内の関わる裁判の記事を
書くことは新聞記者としては重大なコンプライアンス違反とされています。

しかし金学順さんを強制連行被害者にすることは植村氏の義母以上に植村氏と朝日新聞にとって
有利になる部分が大きく、8月11日付の記事の時点で金学順さんをただの元慰安婦として紹介し
現在は生活保護を受けて暮らしていると記事にしただけでは大して世間の注目を集めることは
なかったと思いますが、彼女が女子挺身隊の名で連行された被害者であるということにすれば
植村氏は大変なスクープを発掘したことになりますし、また吉田清治の慰安婦狩り証言を
繰り返し紙面に載せて慰安婦問題で政府バッシングを行おうとしていた朝日新聞社に対しても
被害者側の証人を見つけてきたということで、大きな貢献ができるわけです。
実際に植村氏の記事をきっかけに強制連行デマが拡散されて、それにあわせて朝日新聞の
慰安婦報道は過熱化して行ったわけですから、氏の記事が朝日新聞社にもたらした利益は
非常に大きなものであったと言えると思います。


産経新聞も慰安婦強制連行記事を書いた?

私が植村氏の反論の中で極めて異常だと思うのは、彼が得意気になって
産経新聞も金学順さんを強制連行被害者だと捏造する記事を書いていたと吹聴していることです。

その記事は1991年12月7日付の産経新聞大阪版に書かれたものですが以下のような
内容になっています。

従軍慰安婦で提訴の金さん 若人に歴史知ってほしい

太平洋戦争中、旧日本軍の従軍慰安婦として精神的、肉体的苦痛を強いられたとして
国に対して補償を求める訴えを東京地裁に提訴した金学順さん(六七)が六日、大阪市浪速区の
「リバティおおさか」(大阪人権歴史資料館)で記者会見し「日本の若い人たちに過去の侵略の
歴史を知ってもらいたい。日本政府は従軍慰安婦の存在を認め、謝罪してほしい」と強く訴えた。
金さんは十七歳の時、日本軍に強制連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として
働かされた。「軍人が来ない日はなかった。五人の女性がいたが一日に数十人もの軍人の相手を
させられた」と涙ぐみながら当時の生活を語った。
今年八月、金さんは朝鮮・韓国の従軍慰安婦としては初めて自ら名乗り出た。儒教思想の強い
韓国では「外を歩くのさえ恥ずかしい」思いをしたという。
金さんはきょう七日午後二時からリバティおおさかで行われる第二回文化フォーラム「朝鮮人
従軍慰安婦問題と日本の戦後責任」で自らの体験を証言する。


植村氏が捏造と指摘しているのは「金さんは十七歳の時、日本軍に強制連行され
中国の前線で軍人の相手をする慰安婦として働かされた。」という部分ですが、
記事の日付は1991年12月7日になっており、この記事は植村氏が最初の記事を書いた
8月11日の4ヵ月後に書かれたものであることがお分かりいただけると思います。

「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」という
植村氏の記事をそのままなぞった内容ですし、17歳のとき、中国に連れて行かれた
いうくだりも植村氏の記事から簡単に拾えるものです.。この記事以前に「連行」という言葉を使い
金学順さんの経歴を詳しく説明したものは植村氏の記事くらいしかないので
この金学順さんの経歴は8月11日の植村氏の記事を元に書かれたものであることは
誰の目にも明らかでしょう。

既にこの時点では植村氏の記事によって金学順さんは強制連行被害者であるという認識が
幅広く定着していた証拠ですし、産経新聞も捏造記事を書いていたと言うよりは
産経新聞も植村氏の強制連行記事に騙されたという表現のほうが適切だと思います。

植村氏はどうしても理解できないようですが、何らかのソースがあってそれを
そのまま書いた記事であれば、内容に誤りがあった場合でも誤報という形にしかならず、
その責任は情報源の方にもあるという話にしかなりませんが、ソースにはない話を創作して
記事にした場合は捏造になり、その場合の全責任は記事を書いた人間に
発生するということです。
植村氏の記事を含めて多数行われた慰安婦報道の中にあって、植村氏の記事だけが
特別問題視されている理由はまさにその点にあるわけです。

植村氏は裁判に勝てるのか?

このように植村氏の記事に捏造の意図があった可能性は非常に濃厚なのですが
こんな状況で植村氏は自らを捏造記者と呼ばれたことに対して
櫻井よし子氏と西岡力氏を訴えたのですが、果たして勝ち目があるのでしょうか。

結論から言えば争点が植村氏の記事が捏造か否かという点に絞るのであれば
植村氏の方が圧倒的に有利です。

金学順さんが女子挺身隊の名で戦場に連行されたという経歴が事実ではないことは
争う余地がないことなのですが、これを捏造とする場合は、植村氏がこの記事を
故意に書いたものであることを立証する必要があるからです。

これはお金だけ取って返さなくても、明らかに騙す意図があったことを証明しないと
詐欺罪を成立させられないのと一緒で、特にこの故意の問題に関しては本人が徹底的に否定して
優秀な弁護士が弁護をすれば仮に故意があったとしてもいくらでもごまかして裁判を
有利に進めることができるからです。

既に「養父に説得されて連れて行かれた」という話を「女子挺身隊の名で戦場に連行された」
という内容に作り変えたことに対する植村氏の反論内容が一般的な日本語の用法から見ても
おかしいことは検証済みですが、それでも本人が捏造の意図はなかったと言い張れば
その言い分は認められる可能性が高いと言わざるを得ません。

もしも植村氏が裁判に勝てばどうなるのか?

どうにもなりません。仮に植村氏が勝ったとしても、植村氏が「金学順さんは女子挺身隊の名で
戦場に連行された」という本人が語っていない経歴を書き、それによって慰安婦強制連行デマを
広げるきっかけを作ったという事実は一ミリたりとも動きません。

植村氏の記事は捏造でなければ、新聞記者として許されないレベルの重過失という話にしか
なりませんし、捏造記者の称号がデマ記者に変わるだけの話で、植村氏の責任が免責される
余地は一切ありません。

今後は捏造記者ではなくデマ記者として日本中から今まで以上に厳しい糾弾を受けることに
なるでしょう。

なぜ慰安婦問題は解決できないのか?

日本政府がこれだけ謝罪して多額の償い金を支払っているのに、なぜ慰安婦問題が
解決できないのか多くの人は疑問に感じていると思います。
その原因は既に日本では慰安婦強制連行は朝日新聞のデマだったという認識が
定着しているのですが、韓国人の大半や実情を知らない海外の人々は
未だに強制連行を事実だと信じ込んでいるからです。

日本政府が認めていないのは国の命令による慰安婦の強制連行という違法行為の
法的責任のみで、多くの慰安婦の方々が慰安所で厳しい状況下に置かれたことや
慰安婦制度が存在したおかげで、金学順さんのように騙されたり貧困や身売りによって
本人の意に反する形で慰安婦の仕事をする羽目になった方々がいたことに対する
道義的責任に対しては一貫してこれを認めて謝罪を続けています。

ところが強制連行を信じきっている韓国人は日本政府に対して強制連行の法的責任を
認めて謝罪することを第一に要求しており、当然ながら事実ではないので
日本政府としてはそんなことはできませんし、そのためにいつまでたっても
慰安婦問題の解決ができないわけです。

2015年の慰安婦問題の日韓合意が韓国国民の世論で覆ったのもそれが原因です。
そういった点を考えれば慰安婦強制連行デマの拡散に関わった人間の責任が
どれだけ重いものであるのかはお分かりいただけるでしょう。

この問題に関しては慰安婦問題は強制連行だけが問題視されているわけではないと
いった反論もあるかと思いますが、当時の労働者の労働環境が悪かったことは
慰安婦に限らず世界中のあらゆる業種の職業に共通していることであって
これを国による違法行為とするには無理がありますし
現在でも人権先進国の欧州を中心に売春制度が認められている国も多数ありますので
売春制度そのものの違法性を論じたところで説得力がありません。
日本の従軍慰安婦問題だけが世界中で殊更問題視されているのは
彼女たちが国の命令で強制連行された被害者であるという誤解があるからです。

こんな状況の中でその強制連行のイメージを植えつける決定打になる記事を書いた
当の植村隆氏が「自分は正しい記事を書いたために脅迫を受けるようになった」などと主張して
海外で講演を開くことが、韓国だけでなく世界中の世論にどれだけの悪影響を与え
慰安婦問題の解決を遠のかせているのかは考えるまでもない話でしょう。


慰安婦問題の最大の戦犯は誰なのか?

最後になりますが慰安婦強制連行デマが広がった経緯をまとめます。

まず慰安婦問題のベースになったのは戦時下の朝鮮半島に流れていた
「女子挺身隊にするという名目で国の命令で連れて行かれた女性が慰安婦にされている」
という有名な流言です。戦後もそれを元に書かれた書籍や新聞記事などがあり
吉田清治は自ら慰安婦狩りを行ったなどと主張しましたが
被害者が存在しなかったためにこれらが事実として扱われることはありませんでした。

ところが1991年に植村隆氏が実際には「養父に説得されて慰安婦にされた」と証言していた
金学順さんを「女子挺身隊の名で戦場に連行された被害者である」とした記事を朝日新聞に書き
ここから慰安婦強制連行は被害者の存在する事実であるという話に変わってしまい
吉田清治の慰安婦狩り証言も事実として扱われるようになり、日韓マスコミによる慰安婦問題での
日本バッシングも過熱化し、世界中に慰安婦強制連行デマが拡散されていったわけです。

この問題は戦時下の流言にはじまり、複数の要因が積み重なった結果としてできたものですし
情報が不足していて検証が難しかった時代に起きたものである以上は、取材で得た誤った情報を
そのまま流してしまったマスコミなどを責めるわけにもいかない部分があると思います。

しかし実際には取材や自分が見聞きしたのとは異なる情報を流したとなれば話は別で
それを行った人物は吉田清治と植村隆氏の二人しかいません。
問題の経緯を見ても、もしもこの二人の人物の存在がなければ慰安婦強制連行デマが
拡散されることはあり得なかったと言ってもいいでしょう。

ただし吉田清治はただの文筆家でしかなく、被害者の存在しない彼の創作小説と
パフォーマンスだけでは世論にそこまで大きな影響を与えることは不可能だったでしょうし
数百万部の発行部数を誇り、絶大な信用と社会的影響力のあった朝日新聞に
事実として書かれた金学順さんの記事こそが慰安婦強制連行デマを広げる決定打に
なったのは間違いありません。
植村氏は軽い気持ちで「女子挺身隊の名で戦場に連行された」という文章を書き加えたのかも
しれませんが、この一文は世界中の人間に大きな影響を与え、日本政府や日本人に対して
計り知れないほど甚大な被害と苦痛を与える結果をもたらしたのです。
































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